上海通信番外編・シルクロードの世界へ(2)     
                                                          白蘭花

 ★有人宇宙飛行に成功した「神舟5号」発射センターで知られる―酒泉

 23日、敦煌にカラオケ機器の仕事で来ていたS先輩の関係者、2名は仕事を終えたので此処から上海へ戻ります。私達はマイクロバスにて約400q離れた酒泉へ向います。8:20敦煌を出発。国道312号を東へ向います。10時頃、砂漠のオアシス、安西県で小休止。再び312号を走ります。312号はあまり良い道ではありませんが、なんと上海から新疆の伊寧まで延々約5000km続く国道です。山のような繊維やギューギュー詰の家畜等を積んだ大型トラックや、乗客を乗せたバスが行き交っています。どの車も砂埃でくたびれて見えます。12時近くに玉門鎮に寄りました。その昔、匈奴の攻撃により玉門関から守備隊が逃れて来て住み着いたので、玉門鎮の名が付いたそうです。休憩後また、ひたすら312号を東へ進みます。左手の馬〓(髟かんむりに宗)山(バソウザン)が連なる山脈と右手の祁連山脈に挟まれたゴビ灘の中の1本道です。途中、限りなく長く連結された列車とも並走しました。上海まで3000kmと書かれた標識もありました。

 鉄鉱石が発見され急速に製鉄業が発展してきている嘉峪関市を通り、午後2時頃酒泉市に入りました。酒泉の地名の由来を聞きました。漢の将軍、霍去病(カクキョヘイ)が匈奴(キョウド)を討った褒美に武帝からお酒を戴きました。将軍はこの勝利は部隊全体の功労なので全員で褒美の酒を飲みたいと思い、泉にその酒を注ぎ、皆で泉の水を飲み勝利を祝ったという話にまつわるそうです。今日は5つ星ホテル、酒泉賓館に宿泊します。早速、酒泉賓館女性総支配人主催の遅い昼食を戴きました。広東料理のご馳走です。総支配人は敦煌賓館で服務員からたたき上げてきた女性です。国営だった酒泉賓館を立て直し大きく発展させている真最中です。面白い事に名詞に「回族」と印刷されていました。仕事上、会食が多いからでしょう。こうしていれば豚肉を食べない理由を一々説明しなくてもすみますし、すすめられた豚肉を食べなくても角が立ちません。敦煌の中国国際旅行社社長といい、此処の総支配人といい、敦煌の反弾琵琶舞の天女を髣髴させるかのような、ふくよかで豪快な女性です。

 食事の後は部屋に戻り、道中の砂漠の埃を洗い流してから酒泉の街を散歩しました。街の中心部に鼓楼があり東西南北に大通りが伸びています。人口は36万人ですが、思いのほか大きな街です。街中に「温州方式で発展しよう!」とのスローガンを見付けました。温州は浙江省南部にある人口600万人の市です。その内の100万人が中国国内や海外でのビジネスに活躍しているそうです。元々これといった基幹産業がなかった温州を、人々はボタン、靴、ライター等の家内経営から手掛け、今や中国有数の民間資本による産業都市に築き上げました。上海の不動産も一時期3、4割を温州マネーが買い占めたと聞いた事があります。さて、夕食は酒泉賓館2階の日本料理店「富士」の和室で、再び日本料理を戴きました。給仕の女性も和服を着ています。板前さんの腕も確かです。刺身、天麩羅、さんまの塩焼き、鰻、茶碗蒸し等、どれも大満足の美味しさでした。
 
 24日、酒泉から約23km西に位置する、明代に造られた万里の長城の西の終点、嘉峪関(カヨクカン)へ。二つの山脈に挟まれた河西回廊の中で、その幅24qと最も狭く、守りに適した地にあります。関所内に、叩くとツバメの鳴声に聞こえる石がありました。叩いてみました。確かにツバメの鳴声に聞こえます。その音に呼応したのでしょうか、2羽のツバメがどこからともなく飛来し去っていきました。この後、西の八達嶺と云われている懸壁(ケンヘキ)長城へ足を伸ばしました。北京の八達嶺(ハッタツレイ)よりも急勾配の土の長城でした。昼食はホテルに戻り、またも総支配人主催のご馳走です。四川の辛口と甘口の鍋料理や北京の羊肉のしゃぶしゃぶ鍋等4種類の豪快な鍋料理でした。今日は酒泉を去り西安へ向います。総支配人よりお土産に夜光杯を戴きました。やはり本場の伝統があるからでしょうか、敦煌の物よりも薄く繊細な美しさがあります。


  

★悠久の歴史が息づく―西安

 酒泉を午後6:20発の海南航空で飛び立ちました。32人乗りの小さな双発ジェットです。途中蘭州に寄り、9時頃陜西省の省都、西安に着きました。再び西安中国国際旅行社の王小姐の出迎えで西安皇城賓館に宿泊しました。翌朝、いよいよ楽しみにしていた秦の始皇帝陵の兵馬俑(ヘイバヨウ)へ。始皇帝は中国で始めての国家統一を果たしました。その輝かしき栄華を誇る王朝を、死後も地下宮殿より統治しようとしたのでしょうか・・・。写真や映像では見ていましたが、間近に見る本物には圧倒されました。見れば見るほど、その規模の大きさ、精巧さに驚かされます。出土された1本の光り輝く剣が展示されていました。当時の技術では作り得ない筈のメッキが施された剣です。どうやって作ったのでしょうか・・・謎です。



次に華清池へ。歴代皇帝の風光明媚な温泉保養地です。唐の玄宗皇帝が楊貴妃の為に作らせた湯が有名です。また西安事変の舞台にもなりました。1936年12月12日、張学良と楊虎城が蒋介石を襲撃、共産党との抗日合作を迫ります。蒋介石は華清池背後の山へ逃れますが、中腹の五間庁にて捉えられます。第二次国共合作のきっかけとなった事件です。華清池に迫る背後の山は緑豊かな美しい山でした。 

 



 昼食後、大雁塔へ。唐の玄奘がインドより持ち帰り翻訳した経典を収蔵する為に建てられた塔です。当時は5層でしたが現在は7層、64mの高さです。塔に上ると東西南北に伸びている道が見えます。そして碑林へ。文字が刻まれた石碑の博物館です。約3000点展示されているそうです。博物館の周りには書、画等の文物商店が並んでいました。こちらを見て回るのも面白いです。身の丈以上ある壺がひびがあるので50元(1元≒14円で700円)で売られていました。玉のようなアクセサリーも破格の安さでした。 

さて、西安の街は鐘楼を中心に東西南北に大通りが伸びています。鐘楼の西約500mの地点には鼓楼もあります。その中心街を長方形に取囲んだ城壁は1370年に建てられたものですが、そのまま今も壊されずに残っています。西安は歴史と共存する整然とした美しい街です。城壁には東西南北に大きな門があります。城壁に上りました。自転車、バイクが十分通れる広い道幅を有していました。

 
 今晩は西安名物、羊肉泡〓(食へんに莫)の夕食です。自分で大きなお焼のようなマントウを小さく千切ってお椀に入れます。そこに熱々の羊肉スープをかけて貰います。とても腹持ちが良いので、王小姐は朝食に食べたら、夕食まで何も食べられないそうです。食事の後は、唐楽宮でのショーを観劇。此処は食事をしたり、お酒を飲んだりしながらショーが観られます。ほとんどの観客は欧米人でした。玄宗皇帝と楊貴妃を表しているのでしょうか、唐代の衣装を着た皇帝とお妃のショーです。唐代の衣装を着た楽隊の演奏もありましたが、まるで日本の雛人形のような愛らしさでした。 
 
 今日で大西部の旅も終りです。最後の夜は日本料理店「富士」の2階でカラオケでした。お店の女の子は皆、西安外語学院の学生アルバイトです。学生アルバイトのチーママは新疆のアクスから来ています。皆、日本語で上手に日本の歌を歌います。

 26日、午前9:30の飛行機で西安を後にしました。到着予定よりも随分早く上海虹橋空港に着いたので、お昼には上海の自宅に戻りました。大きく異なる黄土と砂漠の世界から、あっと言う間にネオン煌く大都会、上海に居ます。今回の大西部への旅は中国の大きさ、奥深さを実感させられる旅でした。\(^o^)/  

                                                

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