上海通信番外編・シルクロードの世界へ(1)      
                                                          白蘭花
 
 帰国間近の5月下旬、1週間程、敦煌、酒泉、西安へ旅行することにしました。大学時代のS先輩のお誘いです。さらにT先輩、そして両先輩の関係者と総勢10名の混成部隊です。まず西安空港でS先輩、T先輩、T先輩の友人であるT社長と私達の5名が集合する事になりました。19日の夕刻、上海虹橋空港を飛び立ちました。3時間で到着。西安空港は西安市から車で1時間程走った咸陽(カンヨウ)市にあります。S先輩と共に出迎えてくれた西安中国国際旅行社の王小姐が、早速とても達者な日本語で咸陽について説明してくれました。秦の始皇帝時代には咸陽が都でしたが、漢代以後は西安(長安)が都となり、咸陽は陵墓の地となったそうです。初めての中国大西部、黄色い大地への旅です。歴史の大舞台に降り立ち期待に胸が膨らみます。この日は西安皇城賓館に泊ります。明朝の出発が早いので、ホテル近くの友人が経営する日本料理店「富士」(敦煌、酒泉、桂林にも店があります)で乾杯し冷奴、寿司、ラーメン等の夜食を戴くと、早めに就寝しました。
 
★永遠のオアシス―敦煌

 翌朝7:30の飛行機で甘粛省の敦煌(トンコウ)へ向います。幼い頃から憧れていたシルクロードのオアシス、敦煌です。飛行機は黄土高原の上を静かに飛んで行きます。黄土高原の窪みが織り成す美しい陰影に1時間程見入らされたでしょうか。高く険しい窪みから低くなだらかな窪みとなり、そして砂漠になりました。たまに、砂に埋もれてしまいそうな緑地を見掛けますが、見渡す限りの砂漠です。1時間程すると突然雪を頂いた山並が現れ、また黄土高原の土が織り成す美しい陰影が現れたかと思うと敦煌が見えてきました。やはり砂漠の中のオアシスです。人口15万人の小さな街です。敦煌中国国際旅行社の秦さんが出迎えてくれました。なんと秦さんのお父さんは、その昔、敦煌で初めてトラックを運転するという大役を担った人物だそうです。空港から車で15分、街の中心部にある敦煌賓館に着きました。 


  


 渭城の朝雨 軽塵をうるおす
 客舎 青青 柳色新たなり
 君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
 西のかた 陽関を出ずれば 故人無からん 

 午後は唐の時代に王維が、長安の都から安西(現在のクチャ)に向う友人、元二との別れを詠んだ上記の詩で有名な陽関へ。まるでマッサージを受けているような振動を感じるマイクロバスに乗り、敦煌から西南へ70km走ります。途中、竜巻や蜃気楼を見ながら、左手に40km続く美しい鳴砂山を抜け、祁連(キレン)山脈の雪どけ水を湛えるダムを過ぎると、砂漠にポツンと陽関が現れます。まもなく砂漠に呑み込まれてしまいそうな状態です。360度、周りは砂漠です。西からの風が吹き抜けていきます。


敦煌は年平均降水量が40mm足らずなので、強い日差しを受け汗をかいても、すぐ蒸発するのでしょう。汗が残りません。こまめに水分補給をしないと干乾びそうです。陽関は紀元前114年に漢の武帝が造らせた関所です。陽関博物館を一巡すると当時が偲ばれました。傍では下記の王翰(オウカン)の涼州詞でよく知られている夜光杯が製造販売されていました。碧がかった黒い玉石をくり抜いて作る杯です。

 葡萄の美酒 夜光の杯 
 飲まんと欲して 琵琶馬上に催す 
 酔うて沙場に臥す 君笑うなかれ
 古来征戦 幾人かかえる

 夕食は敦煌中国国際旅行社女性社長主催の御馳走でした。駱駝の手、羊の首、初めて食べました。鶏の足や棗は上海の物よりも大きくて美味しいです。スープは西域の影響でしょう、トマト風味でイタリアンのようでした。唐辛子の上に敦煌特産の瓜がのった料理もあります。昼食もそうでしたが、敦煌は辛い料理を好むようです。じゃが芋やトウモロコシで作ったお焼きのような物、焼うどんのような物、餃子等々、敦煌で栽培された小麦やトウモロコシ、野菜を使った地元の料理です。フルーツの盛合わせで出たプチトマトも、とても甘くて美味しいものでした。今、敦煌は農業に一番力を入れているそうです。中でも綿花の栽培は収益が最も良いとの事。ちなみに観光業は二番目で観光客は国内からは60万人、外国からは6万人で、その内55%が日本人だそうです。

 翌21日、午前中は世界文化遺産の莫高窟(バッコウクツ)へ。やはり敦煌といえば莫高窟。敦煌から東南へ25km行った鳴砂山の麓にある石窟遺跡です。東には三危山(サンキザン)が聳えています。紀元366年、僧侶、楽〓(人べんに尊)が金色の光に照らされた三危山に千仏の姿を見、石窟を1つ掘ったそうです。それが莫高窟最初の石窟と云われています。莫高窟は俗に千仏洞と呼ばれ、現存する492(最近新たに243の石窟の存在が確認されたので735となる)の石窟に、千数百年、名も無き人々により描かれ続けてきた壁画の数々があります。漠の中の小さなオアシス、敦煌に不思議と砂に埋れず残ってきています。

中でも敦煌を象徴する「飛天」の壁画は魅力的です。琵琶を背に弾きながら踊る「反弾琵琶舞」のふくよかな天女の姿も、なんとも伸びやかでダイナミックです。隣接する博物館にはそっくりに模倣された代表的な壁画が展示されていましたが、こちらも十分見応えがありました。

 
 昼食後、ホテル近くを歩いてみました。商店はほとんど昼休みです。昼休みはたっぷり3時間とるそうです。午後は鳴砂山でソリに乗り砂丘滑りです。入口から鳴砂山まで駱駝に揺られて行きました。お馴染みの歌「♪月の〜砂漠を〜♪は〜る〜ば〜ると〜♪」の世界です。今日は風が強く吹き付けます。シルクのスカーフで頭部全体を覆っても砂混じりの風が容赦なく顔や眼を襲ってきます。砂漠を実感しました。鳴砂山に上り周りを見渡すと、きめ細かな砂によるなだらかな起伏が美しく続いています。眼下には三日月の形をした月牙泉も見えます。周囲を砂丘に守られ3000年来涸れたことが無い泉だそうです。美しい鳴砂山に相応しい美しい月牙泉です。
 
 夕食は、敦煌賓館1階にある日本料理店「富士」の友人宅で、手料理を御馳走になりました。友人宅は広さ150uある3LDKの新しいマンションです。副業だった鉄鋼の取引で儲けて買ったそうです。手料理は敦煌風叉焼、豚の耳、春菊のような野菜の胡麻和え、瓢箪の炒め物、魚と豆腐の煮込み、豚肉とニンニクの茎の炒め物等々、どれも美味しい家庭料理です。そしてメインは,友人自ら打つ手打ち麺です。麺はうどんのようです。味付けはトマト風味なのでスパゲティーのようです。やはり東西が接する地、敦煌ならではの料理です。あっさりとして美味しい麺でした。
  
 昨晩もそうでしたが、夕食を終えても外はまだ明るいのです。8時半頃から暮れ始めるようです。夕食後、地元、敦煌の人々が繰り出す繁華街、沙州市場へ出掛けました。食品、ドリンク、ゲーム等の露店や肉や魚を焼いている屋台等、色々な出店が通りの両側にごちゃごちゃと並んでおり、まさしくバザールの雰囲気です。敦煌の人々は昼間は暑いので、夜、涼しくなってから街に繰り出すそうです。夜遅くまでとても賑やかです。脇の路地を入った広場には椅子とテーブルが数多く置かれています。それぞれのテーブルには、そのテーブルを借り受けた女性が皆、揃いの服を着て座り、ソフトドリンクやビール、おつまみを勧めています。露店のスナック街とでもいいましょうか。

 
私達が座ったテーブルの女性は、昼間は化粧品店で働き、5月から10月にかけての暑い時季は、夜、更にこの仕事をしているとの事。化粧品では月300元、夜の仕事ではテーブルの賃貸料等を引いても月400元になるそうです。一見若く見えた女性も実際は32歳の子持ちでした。生活の為にバリバリ働いているようです。
 
 
 22日、8時半出発で敦煌からゴビ砂漠を西北へ。約92q走ったところの玉門関を過ぎ、砂漠の中に新しく建設された有料道路を更に約85q走ります。この有料道路の料金所は以前は入口すぐの所にありましたが、今は10数q入った所にあります。また有料道路の両脇には延々と溝があります。実は料金所を避けて砂漠から侵入する不届き者がいるので、その防止策として料金所を移し、溝も掘られたそうです。道路をそれて砂漠を行くと迷子になり危険です。実際、ガイドの秦さんも迷子になった事があるそうです。約3時間マイクロバスに揺られたでしょうか、2001年12月に国家地質公園になったばかりの雅丹地貌(ヤダンチボウ)に着きました。
 
 
 今回始めて知った雅丹地貌は一体どういう所なのでしょうか。園内面積は約400kuと広大なので車で廻ります。門をくぐると、その片鱗を現しました。幾層も積み重ねられ、そして風化した土の群落が砂漠にぼこぼこと浮いています。まるで砂漠の大海原を疾走する大艦隊のようにも見えます。大自然の迫力に圧倒されます。地球が生んだ壮大な芸術作品です。車を降り歩いてみました。砂漠に生息している生物を見ました。砂漠と同じ色をした小さなトカゲです。強い日差しが容赦なく照りつけるので、長く砂漠にいるとクラクラしてきます。そんな中、T社長は今回の旅の目的である写真撮影の為、砂漠で頑張ります。此処では、最近日本でも公開された張芸謀監督の映画『HERO』の撮影も行われたそうです。さて、今日の昼食は日本料理店「富士」が特別にこしらえてくれたお弁当です。梅や昆布等のおにぎりに鯖の焼き物、コロッケ、卵焼き、沢庵等がきれいに並んでいます。砂漠で日本式弁当が食べられるなんて驚きです。感謝、感激の味でした。

 黄河遠く上る 白雲の間
 一片の孤城 万仞の山
 羌笛何ぞもちいん 楊柳を怨むを
 春光度らず 玉門関

 興奮の中、帰路につきます。唐代に王之渙(オウシカン)により詠われた上記の詩の玉門関に寄りました。此処も周りは地平線まで砂漠のみです。玉門関から東に一直線に漢代の長城が伸びています。まさしく都、長安の「春の光」さえ届かないような西の果ての玉門関です。また、祁連山脈の雪どけ水を湛えた党河水庫にも寄りました。驚きました。ダムには水が満々とありました。農業用だそうです。青々と光り輝く水面が目の前に広がっています。白く乾いた砂漠とは対照的なだけに不思議です。そして井上靖の小説を映画化した『敦煌』の撮影セットが、そのまま残されていました。妙に砂漠に馴染んでいました。

さて、今日の夕食は敦煌賓館総支配人主催の農家料理でした。街外れの農家をレストランに改装しています。中庭では数人の素朴な農民楽隊が歓送迎の演奏をしてくれました。笛、太鼓、胡弓による楽しい調べです。地元の野菜を使った料理も美味しいものでした。敦煌は、朝は綿入れを着て、昼は薄いシルクを着、夜はストーブを焚いてスイカを食べると云われるほど、1日の寒暖の差が激しいそうです。

                                                                         
  夕食後は、敦煌で合流していたT先輩の関係者3名が、来た時と同じく列車で蘭州へ戻ります。蘭州からは飛行機で上海へ飛び、上海から揚子江を渡った対岸の南通へ帰るそうです。3名は南通でアパレル関係の会社を経営しています。私達は太陽大酒店の2階にある、日本料理店「故郷」でビールをご馳走になり、近くの"足浴"へ連れて行って貰いました。湖南から出稼ぎに来ているという、どう見ても10代にしか見えない女の子達がマッサージしてくれました。今晩は敦煌最後の夜です。"足浴"で足も軽くなり、また夜市へ出掛けました。S先輩行きつけの屋台です。冷えたビールがありました。そして此処では生まれて始めて、羊の脳ミソを戴きました。羊の頭部を丸ごと焼いての登場です。味は白子と全く同じで、とても美味しいものでした。夜市では若者がアンプ持参で流しをしていました。私達も台湾の歌手、任賢斉(リッチー・レン)の歌「対面的女孩看過来」等をリクエストしました。あちらこちらで老若男女が賑やかに盛り上がっています。古代から敦煌の人々は、このように大いに生活を楽しんでいたのでしょう。東西の往来が盛んだった頃は如何許りだったのでしょうか・・・。
  

                                                

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