上海通信6“迎新年,迎春節”(1)
白蘭花


 十二月の中旬、下旬は、明け方近くには零下になるほど冷え込み、日中も風が冷たく寒い日があったかとおもえば、かたや15度以上の暖かい日が続いたりと気温が大きく変化しました。わが家にも小さな変化がありました。一つは日本から持参したプリンターが壊れてしまいました。中国でも使えるようにと同じ電圧(220V)のアメリカ製のプリンターです。封筒の印刷をしていたら動かなくなりました。わが家から歩いて10分程の所にメーカー専門の修理部門がありました。社員は皆、若い人ばかりで対応が早く親切です。新しく買った方が得との結論で「永楽家電」に走りました。日本のメーカーの物は在庫がないとの事で更にスーパーマーケット「家楽福」へ走りました。399元(1元≒14円で約5586円)で買えました。封筒印刷の際の使用注意も説明書きがあります。やはり日本の物は細やかです。もう一つは冷蔵庫が壊れました。金曜日の夜遅くに気が付きました。土曜日、マンションの管理部門に連絡しました。日曜日、驚きました、休みにもかかわらず修理に来てくれました。メーカーは倒産したそうですが修理部門だけは残っているそうです。手早く修理を終えると急ぎ次の修理へと向って行きました。この二つの出来事を通しても計画経済の頃からは考えられない対応の早さです。市場経済の急速な発展により上海の人々の仕事に対する意識が大きく変わった事を実感しています。

(^o^)丿“迎新年” 

 年末、上海の街もクリスマスの飾り付けから新年の飾り付けへと変わりました。日本のようにデパートやスーパーにお正月用品が賑やかに並び、大掃除やおせち料理の準備に大忙しという風物詩がないので、いまひとつ雰囲気が出ませんが、三十一日は一応、年越しそば(そばの乾麺も粉末鰹だしもスーパーで売っています)を食べ「紅白歌合戦」(殆どの外国人向けマンションは衛星放送が受信できます)を見ました。日本は一月一日、新暦のお正月を祝いますが、中国は旧暦(農暦)のお正月、つまり“春節”を盛大に祝います。よって新年は元旦は休みですが二日からは仕事です。
一月一日、友人のZ氏より“新年飯”を食べて麻雀をしようとの誘いがありました。残念ながら、わが家は二人とも麻雀ができないのでお断りしました。Y氏からも“新年飯”への誘いがきました。こちらは麻雀はなく食事だけなので出掛けてみました。“年年有余”(毎年余りがある)の“余”と“魚”が同じ音なので新年には今年も余裕があるようにとの願いから魚を食べるそうです。“白魚”(名前の通り白いきれいな淡水魚)の姿蒸し、しらうおのスープ、天目湖(江蘇省、安徽省、浙江省の省境にある)産の大きな魚の頭の煮付け等を戴きました。

(^o^)丿“烏鎮、桐郷へ”


 一月五、六日と一泊二日で烏鎮へ行きました。年末年始の休みを利用して日本から友人のGさん一家が里帰り中でしたが、夫人は桐郷(人口70万人の市。うち流動人口が5万人)出身です。彼女が車を手配してくれました。同じく上海に帰省中だった友人と一緒に乗りました。桐郷までは一時間で着きました。Gさん一家と合流し、夫人の案内で石門鎮にある中国の著名な漫画家“豊子ト”記念館へ。
愛くるしい子供の絵が特徴的です。日本へ留学した経験がある事を知りました。当時、つまり租界時代の上海には日本人が約10万人程居たようです。現在は約3万人とも約5万人とも云われていますので、その頃の交流が如何に盛んであったか伺えます。もっとも租界だったのでパスポートやビザの必要がなかったせいもあるでしょう・・・。参観後、すぐ近くを流れている隋の煬帝が造った京杭大運河が迂回している辺に寄りました。隋は、この北京から江南まで延々と続く大運河建設という大事業により滅びてしまいましたが、確かに、これ程の物を造って滅びない訳がないと妙に納得しました。さて大運河が迂回している辺りには、石門鎮の名の由来となった、戦国時代に呉越国境の目印とした石が立てられています。戦国時代、隋、そして今、石碑そばには屋台が出ていました。大鍋に入れた生の落花生をスコップで炒っています。300gで2元です。香ばしく落花生本来の美味しさです。“油〓(土へんに敦)子”(細切り大根の天ぷら)も揚げていました。1個2元です。揚げたてのアツアツをフーフーいいながら食べました。中はやわらかく大根の甘味が、なんとも美味しいです。

 

 車で十五分程走ったでしょうか、霧雨が降る中、烏鎮の街に入りました。二十年程前までは道路がなかったので二時間かけて舟で運河を行ったそうです。さて街中には水路が流れ、縁には白い漆喰壁に黒い瓦屋根の民家が並んでいます。昔のままの江南の水郷風景です。雨が幸いし、しっとりとした風情に溢れています。この日は水路傍の「翰林府第」に泊りました。ここは民家を1階はレストラン、2階はホテルにしています。夕食もここで、ご馳走になりました。
名物料理であるぶつ切りにした羊の肉の醤油煮や“花〓(米へんに羔)”(あんが入ったもち米で作った蒸しパン)、この地方で新年に食べる塩漬け豚もも肉の塊の煮込み、その外、地鶏とへちまのスープ、漬物にする前のザー菜の炒め物、ピーナッツの甘酢漬け、“白魚”の姿蒸し、からし菜がのったスープ麺等です。
   
 翌日は、まず烏鎮が輩出した中国近代文学作家「茅盾」の旧居を訪れました。すぐ傍には小説に描かれた「林家舗子」もありました。茅盾の生家は“四世同堂”(四世代同居)の総勢22人が暮す豊かな家でした。家族が反対する中、唯一、母親の支援により高校で学び更に北京大学へと進みます。卒業後、上海商務印書館に入り左翼作家として活躍します。茅盾も国民党の手から逃れる為、1928年に二年近く日本へ脱出しています。家族の写真の中に“爺爺”(祖父)らしき姿もありました。
後の代表的な作品「子夜」の冒頭に登場する、田舎から大都会の上海に出て来て目を廻して死んでしまう“爺爺”と思わずダブって見てしまいました。この時は偶々、烏鎮の街は節電のため停電でした。(工業地帯への電気供給の影響でしょうか・・・)参観場所が暗いので当時が、より強く感じられました。翌更に濡れた石畳を歩いて“江南木彫”の陳列館、“藍印花布”(藍染め)の工房、機織の工房等も巡りました。そして烏鎮を後にし、また桐郷へ戻り「銭君〓(勹がまえに缶)美術館」へ。1階は山西省の画家達の作品が展示中でした。更に特別に2階の部屋で国宝である明、清朝時代の絵画や書、「呉昌碩」の篆刻作品、近代では「斉白石」の絵画等を見せて頂きました。思いがけない喜びでした。烏鎮、桐郷への旅は、歴史と文学、芸術に触れる旅でした。

(^o^)丿“足浴”

 烏鎮から帰って来て五、六日経った頃、日本からM氏が来ました。一緒に食事した後“足浴”へ連れて行って貰いました。熱い漢方薬湯が入った桶に足を暫く浸けておきます。足が十分暖まったら桶から出してマッサージの始まりです。片足ずつ念入りに揉み解してくれます。慈渓で1回、揚州で1回経験があります。上海では初めてです。男性客には女性が担当し、女性客には男性が担当するようです。小一時間位かかるでしょうか、終わったら足が、とても軽くなったように感じます。揚州では歩き疲れた時だったので効果てきめんでした。上海での主人の足担当の女性は“師傳”(師匠)のようで、私の足担当の男の子が色々と教わっていました。女性は揚州から出稼ぎに来ていて自分の店も持っているようです。男の子は安徽省からの出稼ぎです。女性に店の労働条件を細かく聞いていました。女性“師傳”の腕は確かなようです。主人はもともと足が冷え性ですが、この後、暫くは「足がぽかぽかだ。」と言っていました。


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