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厦門(アモイ)――海商の野望が育んだ街                   

中村達雄

 東シナ海から台湾海峡を斜に切り下げる福建省の海岸線には、無数の浦々が連なっている。のこぎりの刃をおもわせるリアス式海岸(rias=入江)の絶景を、海鳥にでもなったつもりでふわふわと想像してしてみる。すると、元の時代(13世紀)、すでに南洋への遠洋航海の基地として沸騰した泉州港のにぎわいなどが、にわかに現実感のある風景として蘇ってくる。この時代の中国をつぶさに歩いたマルコ・ポーロは、帰国後『東方見聞録』を口述した。このことによって、世界は泉州という東方のエキゾチックな海港をザイトゥンの名で知ることになる。これから向う厦門は、この13世紀に栄えた港町からみると、石獅の半島をひとつ越えた湾の真ん中に浮かぶ島嶼のひとつで、古来、泉州港の外港として栄えてきた。


騎楼が放つ時代の磁場

 厦門の街は、東西に走る中山路と南北を貫く思明路によって、その骨格が形成されている。
 中山路は鼓浪嶼(コロンス島)を眼前にのぞむ鷺江賓館から一直線に騎楼の連なりが老醜をさらし、無言でこの街の歴史を物語っている。騎楼とは、南洋のチャイナタウンを舞台にした映画の中などで頻繁に見ることができる。二階以上を歩道からのびた柱が支えている、あの独特な建築様式である。厦門にその源流がある。道はやがて思明路と交叉する十字路にたどりつく。前方に思明電影院という名前の時代がかった映画館が見えてきた。
 思明路はこの街の生い立ちのようなものを幾世代にもわたって放射しつづけてきた。時代という時間の積み重ねが放つ磁場を感じさせる場所、と云っても差し支えない。思明路のことを考えるには、まず、厦門島を根城に活動した海商(海賊)の話からはじめなければならない。


抗清復明に賭けた夢の跡

 中国大陸を南北に分ける揚子江の河口から浙江省を経て、福建省沿岸を南下する。船山群島、馬祖列島(台湾領)、海壇島、南日島、金門島(台湾領)などの島嶼が飛び石のように続き、やがて厦門島に達する。海岸線は、みるからに漁労や南洋各地への遠洋貿易に適していることがわかる。明末清初のころ、この海域に政府の官貿易を脅かす私設の海商団(海賊)が跋扈した。数百隻とも数千隻ともいわれる商船隊を擁した海賊の勢力は、倭冦とともに南中国(福建、広東)の沿海全域を遊弋し、明清両朝はこれらを激しく恐怖した。この海商が、世界史にもその名前を残した鄭成功である。
 鄭成功は肥前松浦藩の客分として平戸島に住んでいた海賊の頭目、鄭芝龍と、松浦藩士であった田川氏の娘ハツとの間に生まれた混血児で、幼名を福松と称した。鄭成功は、明の始祖である洪武帝が首都に定めた南京の国子監(国立大学)に学び、官吏を目指した。明朝の没落に遭遇して、政治では国難を救えないことを知り、学問を捨て、清に寝返った父芝龍の船団を継いだ。明が倒れ、清朝が中国を統一すると、明の復活を思った鄭成功は、厦門島を思明州と改名し「抗清復明」政権を旗揚げした。思明とは、明を思う、ということである。厦門の街を南北に貫く思明路には、上のような命名のいきさつがあった。


名刹に舞う木綿花の胞子

 思明電影院のある十字路を境にして、思明路は北路と南路にわかれる。騎楼が連なるゆるやかな上り勾配の南路をひた走ると、前方に民族色豊かな瓦屋根の高楼が見えてきた。厦門大学である。ここは魯迅が迫害をのがれて避難したことでも知られているが、いま、その経緯を語る紙幅の余裕はない。
 南普陀寺は堀を隔てて厦門大学に隣接している。地元の人が五老峰とよぶ山の斜面を利用し、唐代に建立された華南の名刹である。境内には随所に木綿花の大樹が茂り、瑠璃色の瓦と調和して心地よい。ついでながら、木綿花は福建省の花ではなく、広州市の市花として知られる。綿のような胞子を初夏の空に舞わせ、肉厚の花弁は自由で情熱的な南国の雰囲気を盛りたてている。広州市にベースを置く中国南方航空機の尾翼には、この花の図案があざやかにペイントされていて美しい。
 

 南普陀寺では、僧侶が精進するための料理を一般観光客にも供している。『素斎』という名前のレストランがそれだ。野菜と油をたくみに使って仕上げた薬膳の逸品は、静かで清浄な雰囲気に相応しい。 
 古来、揚子江以南の仏教寺院は浙江省の普陀寺が本山だった。上海人などは、今でも、毎年一回はお参りに出かけるほどのお寺である。ここ厦門島の古刹は普陀寺のはるか南方に位置したことから、南普陀寺と命名された。ときおり袈裟姿の若者が境内に現れ、佛学院の表札のかかった小門の内に消えていく。僧侶の幹部候補を養成している仏教大学であろう。学院の案内書には1924年創立と記されていた。


小金門を望む砲台

 車は厦門大学の運動場に沿って大学路を東に走り、胡裏山炮台に向かっている。ここは清末の光緒17年(1891年)に海防の要塞として築かれた砲台で、現在も全長14メートル、口径280ミリ、重量60トンのカノン砲(ドイツ製)が保存・展示されている。巨砲は30度ほどの角度で、水平線の春霞のなかに墨絵のように浮かぶ小金門島を狙っている。
 
あの島の向こうには「小三通」で往来が可能になった金門島(台湾領)があるはずだが、島影を認めることはできない。砲台で知り合った遊山客は、
 「台湾本島との大三通ができれば、交流も増えるかもしれない」
 と、元気がない。市民生活を見るかぎり、「小三通」による目立った経済効果は表れていないようだ。事実、台湾企業を誘致するため、厦門島対岸の大陸側に開発された海滄台商投資区と台湾との往来は、香港かマカオを経由するルートを使うのが一般的である。厦門と金門島のみの往来に限られる「小三通」は、金門島への親戚訪問ぐらいにしか利用できないらしい。

 
鼓浪嶼の洋館

 渡船は、鷺江賓館の前にある輪渡碼頭から出ていた。鼓浪嶼まで、600メートルの海峡を越える。この島は、全島がコロニアルな洋館で被われている。清朝政府はアヘン戦争の戦後処理を決めた南京条約(1842年)で英国に香港島を割譲し、同時に厦門、広州、福州、寧波、上海の5港を開港した。翌年、英国軍が鼓浪嶼に上陸して領事事務所を設け、これが欧風建築物の起源となった。その後、米国、ドイツ、フランス、オランダ、スペイン、オーストリア、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、ポルトガル、スイス、日本の列強も進駐してここを共同租界とし、各国の領事館や倶楽部などで小さな島は南欧の避暑地のような風情になってしまった。租界時代の負の遺産が、いま、美しい観光資源となっていることは、歴史のいたずらというほかない。輪渡碼頭から鼓浪嶼の海岸伝いに鹿礁路を進む。道はやがて大きな鄭成功像が立つ岬を越えて大徳記海水浴場に入った。眼前に厦門港を望み、背後には海峡を隔てた大陸側に海滄投資区が見える。美しい海岸線と光る波を眺めていると、ここが中国であることを忘れそうだ。
 

 鼓浪嶼をぐるりと鉢巻のように巻いている海岸線は、海水浴場と岩場が断続的に続いている。風浪の侵蝕で岩礁に大きな洞穴ができ、そこに波が打ちよせると、ガラン(鼓浪)、ガラン(鼓浪)という大きな音をたてた。その音が島人の感性を揺さぶり、鼓浪嶼という名前がつけられた。はるか明代のことである。波に洗われて光る大岩があちこちに散在している。ガラン、ガランという音が聞こえるだけで、洞穴のある岩礁がどれなのか、よくわからない。語り伝えられた名勝は幻のままであるほうがお伽めかしく、よほど旅情を増幅させてくれる。
 

 港仔后海水浴場の屋台で、椰子の実を割ってもらった。これから日光岩寺までの急峻な階段を登らなければならない。寺の門をくぐり、そこから奇岩が覆いかぶさってくる参道をたどっていくと、やがて鼓浪嶼の最高峰、日光岩に到達する。眼下の斜面には洋館が瀟洒に連なり、その向こうに厦門島の全容を見渡すことができる。イスラム寺院のようなドーム型の屋根を戴く建物は八卦楼(厦門博物館)にちがいない。ドームの向こうの空には、この街の発展を約束するかのように、海滄大橋の雄姿が白く淡く浮かんでいる。


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