上海通信bS“金秋”の小旅行

                                         白蘭花


 国慶節休み明けの十月八日からの、上海の街の通勤ラッシュは一段と烈しいものでした。この一週間の仕事のブランクを、いち早く取り戻したいとの意気込みを感じました。さて、十月の半ば頃から朝夕は肌寒くなり上着が必要になりました。また、空気も俄かに乾燥し始めました。洗濯物の乾きは早くなりましたが、喉はカラカラ、肌はカサカサです。でも、暑くもなく寒くもなく、中国で最も好い季節といわれている“金秋”です。上海近辺を観て廻る事にしました。

(T_T) 「えっ!慈渓って?」

 上海の友人、Y氏の「寧波に一緒に行こう。蒋介石の生家も見られるよ。」との誘いに乗り、十月十六、十七日と一泊二日で出掛ける事になりました。いそいそと車に乗り込むと、Y氏がおもむろに地図を広げ、慈渓を指し「ここへ行きます。」との事。「えっ!慈渓って?寧波じゃないの・・・」との言葉を呑み込み、頷きます。慈渓は、杭州湾を挟んで上海の真南に位置します。寧波(広域)市を形成する市の1つです。因みに、中国は大きく北京、天津、上海、重慶の4大直轄市、23の省、5つの自治区、2つの特別行政区(香港、マカオ)に分れています。その下に、概ね、以下のように行政区分されています。直轄市→区・県→鎮・郷    省→市(広域)・地区・州→市・県→鎮・郷自治区→州・市・県→鎮・郷

  さて、慈渓へは、Y氏の知り合いのJ社長の案内です。まだ三十歳台のJ社長は、農民から運送業に転じ、今や年商は数100万元に上るそうです。慈渓は、上海から高速道路で約三時間ですが、運悪く下り線が、上海からすぐの嘉興付近で封鎖されていたため、下の省道を走る事になりました。ガタンゴトンと揺られて五時間程かかってしまいました。慈渓は人口約140万人(内、約40万人は臨時戸籍の外来人口です。)の家電、鋳型、繊維原料等で知られる小さな市です。今、二年後の完成を目指して、上海近郊の海塩から慈渓への杭州湾跨海大橋(全長約36km)の建設が進められています。そのため慈渓も開発中です。開発区の土地の価格が25倍に跳ね上がったそうです。市街地もあちらこちらで整備された所、されていない所が混然としていました。新しく建設されたばかりの市庁舎には驚かされました。上海市庁舎よりも大きな建物でした。

 慈渓では、杭州湾が遠浅なので、日本の有明海と同じような海産物が見られました。むつごろう、いそぎんちゃく、めかじゃ、うんたけ、くつぞこ(舌平目)、あげまき等です。今、新鮮な海鮮を田舎に食べに行く事がブームだそうで、J社長が人気の料理屋に連れて行ってくれました。やはり上海では味わえない田舎料理でした。慈渓は、今はまだコンビニも見掛けない田舎町ですが、二年後、そして十年後と発展して、大きく様変わりして行く事でしょう。帰りは、寧波に廻って名物“寧波湯団”を食べました。お碗には、お湯の中に黒胡麻餡を包んだ白いお団子が沈んでいます。上に金木犀の香りがする砂糖が、かかっています。つるりとした咽喉越しと、しつこくない甘さなので、8個ものお団子をぺろりとたいらげてしまいました。



(^o^) O君が頑張る町、靖江 

 十月二十五日からは五泊六日で、上海に隣接する江蘇省の靖江、揚州、鎮江へ。靖江で仕事に頑張っているO君が車で迎えに来てくれました。靖江に常住している日本人は、O君と社長の2人だけだそうです。人口約70万人の靖江市は、上海から高速道路で二時間程です。O君が最近、ケンタッキーと上島珈琲(後述)ができたと喜んでいましたが、未だにお昼休みをたっぷり二時間とる長閑な町です。途中、上海蟹で有名な陽澄湖を通りました。上海蟹は旧暦の九月にメス、十月にオスが美味しいそうです。ちょうど今頃からでしょうか。上海蟹について面白い話を聞きました。上海蟹の最高ブランドの陽澄湖の蟹には、「本科生」と「研修生」があるそうです。「本科生」とは陽澄湖で孵化し育てられた蟹の事です。足の先が黄色いのが特徴です。「研修生」とは他所で育って陽澄湖の水に数ヶ月浸かっただけの蟹の事です。陽澄湖の蟹となると高値で売れるため、何としてでもブランド名が欲しいのでしょう。

  三年前に開通した江陰大橋(全長3.71km)を渡って、長江を越えると靖江に入りました。名物には“蟹黄湯包”、“河豚”、“芋〓(くさかんむりに乃)”(里芋)、“猪肉脯”(ポークジャーキ)があります。特に“蟹黄湯包”は、他所からわざわざ食べに来る人がいるそうです。O君と社長(ナント、同じ大学出身でした。)、そして中国人の副社長の三人による、おもてなしの席で私達も戴きました。中華饅頭の大きさの“小龍包”といったところでしょうか。饅頭の中に入っている熱々のスープを、上手に吸わなければ火傷をしてしまいます。食べるのに些か技術を要しますが、確かに美味しいです。“河豚”は皮を付けたまま砂糖醤油で煮た物を戴きました。味は良いのですが、皮には細かい棘が残ったままなので、皮は遠慮しました。蟹も戴きましたが、陽澄湖の蟹ではなく地元の物でした。陽澄湖の蟹は全部、高値が付く上海へ売られていくそうです。そして“紅花菜”(レンゲ草)の炒め物等、初めて食べる料理ばかりでした。

 次の日、午前中はO君の職場見学です。O君の会社は、主に各種タンクや製造装置に不可欠なライニング加工(大小様々な鉄管に腐食に強いゴムをコーティングする。)の企業です。日本国内の生産コスト削減の為に、中国工場を設立し逆輸入していましたが、中国市場が拡大し、今や6割が中国国内向けになったそうです。昨今、中国が環境問題に配慮し始めた為、排気、廃液等の公害防止機器に、ライニング加工製品が必要となったようです。工場は日曜日にもかかわらず、工員さん達が働いていました。工員さん達は手当てが付くので、残業や休日出勤を喜ぶそうです。工場では大きな製品を作るわりには、意外にも、ゴムを切ったり貼ったりの手作業がなされていました。細かな作業が要求される為、女工さんを多く見掛けました。

 午後、長江を挟んで反対側の江陰市の華西村へ。昨日通った江陰大橋を又、渡りました。華西村は人民公社時代、多角経営のモデル農村として名を馳せた華西生産大隊です。二十数年前、無錫からバスで訪れた事がある筈ですが、あまりの変容振りに、どうしても華西村と華西大隊が結び付きません。村の中心部にホテル、レストラン等の施設を備えた98mの金塔が聳えています。展望台に上り、村全体を見渡しました。驚かされるのは村民の住宅です。日本のモデルハウスのような立派な家が、整然と並んでいます。駐車場や門の前には車も停まっています。村営企業の利益の反映です。1520人の村民で現在、鉄鋼、肥料、繊維、洋服等、60余の様々な企業を経営しています。将来は大学の経営も考えているそうです。村の広場に大きく掲げられていた言葉が、華西村を象徴していて印象的でした。



 「家有黄金数〓(口へんに屯),一天也只能喫三頓;豪華房子独占鰲頭,一人也只占一個床位。」 (家に黄金が数トンあろうとも、一日の食事は三回のみ。豪華な屋敷を一人占めしようとも、寝る時は一つのベットのみ。) 帰りは江陰大橋を通らずにフェリーに乗りました。橋の通行料が高いので、フェリーの利用者は、まだ多いようです。頻繁に往来していました。

(^.^) 文化薫る歴史の町、揚州

 二泊した靖江を後にし、O君が手配してくれた車で揚州市へ。日本語を勉強中の人民解放軍出身の運転手さんは、とても気さくで、道中一時間ずっと喋りどうしでした。二十数年前,揚州を訪れた時は,南京からバスに揺られて長江大橋(二層式。上の道路橋が全長約4.6km。下の鉄道橋が全長約6.8km。)を渡り、ひたすら並木道を走りました。辺り一面の菜の花畑がとても綺麗だった事が、今でも忘れられません。さて、運転手さんに別れを告げ、街中のホテルにチェックインしました。暫し休憩してから市街地見学です。街中を流れる運河には中国風の亭(あずまや)があり、親水公園になっています。古い楼閣が、ロータリーや通りの真ん中に残されています。緑地帯が、やはり伝統的な亭を擁する公園になっている通りもあります。そうして、ぶらりぶらり歩いていると痩西湖(浙江省杭州の「西湖」より小さいので、そう称されたそうです。)に着きました。公園を散策していると、ちょうど夕暮れ時になりました。人も少なく、湖畔の柳もそよそよと風になびく中、遊覧船で痩西湖を巡りました。まるで漢詩の世界に入り込んだかのような心地良いひと時でした。



 次の日は、唐招提寺を模して作られた鑑真紀念堂のある大明寺を見て、漢廣陵王博物館へ。博物館は期待していなかっただけに、来て見て吃驚です。漢代の廣陵王と王妃の墓です。防腐効果の高いクスノキで使られていました。青銅製の数頭の馬が墓を守っています。古い木の匂いが篭る暗くひんやりとした地下の陵墓には、参観者は私達2人だけで監視人もいません。棺から廣陵王が現れるのでは・・・と思ってしまう程、静かな古代の雰囲気に満ちています。驚いた事に展示の墓は、手が触れる程すぐ傍で見られます。古代への想いを胸に、次は個園へ。個園では茶館でお茶を戴きました。緑茶の碧螺春と祁門紅茶で、ホッと疲れを癒していると、庭園に三々五々、人が集まって来ました。芝生で太極拳を始める人。庭園の池にかかる橋の欄干に座り、腕を揉み解す人。欄干に足を掛け写真を撮る人。回廊では二胡の演奏が始まりました。それに合せて歌も聞こえてきます。伝統劇の練習でしょう。やはり揚州は歴史ある文化の息づく町です。

(^_-) 香酢の町、鎮江

 二十九日、揚州からタクシーで鎮江へ。一時間掛かりませんでした。途中、フェリーで長江を渡りました。すぐ傍には来年完成予定の潤揚大橋(全長23.66km)が建設中でした。運転手さんが、「江沢民の贈物です。」と喜んでいましたが、そういえば江沢民前国家主席は揚州出身でした。フェリーを降りると、何処からともなく独特の酢の匂いが漂いました。やはり香酢の町、鎮江だと嬉しくなりました。一日の売上げを一度で稼いだからでしょうか・・・終始、上機嫌だった運転手さんに代金120元(1元≒14円で約1680円)を渡し、街の中心部のホテルにチェックインしました。  午後は、まず、お向いの食堂で麺を食べました。テーブルには、やはり香酢が大きな急須に入れられて置いてあります。腹ごしらえを終え金山へ。康熙帝(清朝第4代皇帝)の碑があるとの事。ぜひ見てみたいと思い、頑張って石段を登りました。石碑に「江天一覧」とありました。確かに西方に、迂回した長江が見えます。そして天空。長江から眼下まで「天下第一泉」を有する水を湛えた美しい風景が広がっています。その通りですが・・・。あまりにもそのままなので、些か拍子抜けしました。金山の帰りに、古い街並みが残る西津渡街を歩いてみました。くねくねとした石畳の狭い路地街ですが、あっという間に途絶えてしまい、ここも些か拍子抜けです。夜、揚州でも、そうでしたが、あちらこちらで花火があがります。時期的に結婚式の花火でしょう。高い建物がないのでよく見渡せました。  三十日、ホテル近くの鎮江の街を一巡して、上島珈琲に入りました。日本のUCCと思っていたら、なんと台湾のUBCでした。3倍位に濃縮されたようなコーヒーの味には、うんざりさせられました。さて今日、上海へ帰ります。靖江も揚州も列車が通っていませんが、鎮江には列車が通っています。鎮江から上海まで二時間十五分です。57元の軟座(グリーン車)に乗り、ひと眠りしたら上海に着きました。靖江、揚州、鎮江と何処も埃っぽかったので、上海の空気が新鮮に感じられました。また、上海駅からタクシーに乗りましたが、車もバイクも人も、ルール通り、きちんと行き交っているように見えました。特に靖江では交通ルールが滅茶苦茶で、一応、車線はありますが、車が少ないせいか、人も車も自転車もバイクも、所構わず好きなように往来していたからでしょう。上海で、「外地(他の地域)の車に気を付けなさい。」と、よく言われますが、その意味がよく解りました。今回の旅行中、二十九日あたりから天気が崩れるとの予報でしたが、幸いにもお天気にも恵まれた旅でした。\(~o~)/


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